2019年07月11日


8月 中旬
・科学館(埼玉県 越谷ミラクル)

8月下旬
・キャンプ(岐阜県 平湯キャンプ場)

・平日開催
・自由集合、自由解散
・雨天中止

もしも現地でご一緒できる方がいましたら連絡ください。おって日時の詳細と集合場所を連絡させてもらいますね。

携帯(スマホ)を持っていませんので、待ち合わせは事前にメール(LINE)にて相談させてください。

企画者 えぴす
episteme-homeschool@yahoo.co.jp

(21:28)

2019年07月07日


7月中旬
・プール(辻堂海浜公園)
・シュノーケル(静岡県伊豆半島下田・土肥)

7月下旬
・桃狩り(山梨県南アルプス市)
・洞窟探検(山梨県富士吉田)
・横須賀うみかぜ公園ヨコスカ恐竜パーク2019


・平日開催
・自由集合、自由解散
・雨天中止

もしも現地でご一緒できる方がいましたら連絡ください。追って日時の詳細と集合場所を連絡させてもらいますね。

携帯(スマホ)を持っていませんので、待ち合わせは事前にメール(LINE)にて相談させてください。

企画者 えぴす
episteme-homeschool@yahoo.co.jp


(10:46)

2019年05月01日


ホームスクールを始めて2年、学年的には息子は小学3年生になり、私(父親)がこのホームスクール・ブログを始めてもうすぐ1年が経ちます。

この2年間の経験で、ホームスクーラー(ホームスクールを行っている家庭)には、大きく分けて3つのタイプがあると思いました。

1つ目は、不登校からのホームスクール
2つ目は、英才教育としてのホームスクール
3つ目は、遊びとしてのホームスクール ←(私達はここです)

1つ目の、「不登校からのホームスクール」とは、元々は学校に通っていたが何らかの理由で不登校になり、家庭でのホームスクーリングを始めたホームスクーラーのことです。

この「不登校からのホームスクール」が、日本のホームスクーラーのほとんどを占めるのではないかと思われます。統計で調べたわけではありませんが、体感的には90%ぐらい。子供が学校へ戻って欲しいという気持ちと、このままホームスクールの道を突き進むかの2者択一の葛藤、親が忙しい場合が多く家庭で子供を見る時間が少ない為、学校以外の子供の居場所(フリースクールや私塾など)を探す事が多いようです。

2つ目の、「英才教育としてのホームスクール」とは、公立学校の教育では飽き足らず、私立学校の教育では費用対効果が悪い為、ならば親が子供の家庭教師になろうと、教育を重視したホームスクーラーのことです。親が積極的に子供の教育を支援し、座学だけでなく経験も重視し、子供が語学・数学・科学技術・芸術・スポーツなどを取得するのに惜しみなく協力をします。中近世ヨーロッパ貴族の教育に近い感じがしますよね。

3つ目の、「遊びとしてのホームスクール」とは、人生の中で一番遊びたい時期、1度しかないこの「幼少時代」を大いに楽しんで過ごしてほしいと親が願うホームスクーラーのことです。

ここで言う「遊び」とは、かなり広範囲の事を言い、公園で遊んだり、海で泳いだり山に登ったり、旅をしたりキャンプしたり、カードやゲームで遊んだり、友達同士で基地を作ったり鬼ごっこをしたり、本を読んだりマンガを読んだり、プラモデルを作ったり工作をしたり、絵を描いたり音楽を演奏したり、料理をしたりスポーツをしたり、学校で言う「技能4教科」+「子供の遊び」という感じでしょうか。遊びを通じて「遊行」から、いかに「洗練された行為」へと進んでいけるか? が重要かと思いますが、まずは子供が楽しく過ごすことが第一の目的です。


・・・・・・・・・・


以後、1つ目のホームスクーラーを「居場所型」、2つ目を「英才型」、3つ目を「遊行型」と呼ぶことにします。

3つのホームスクーラーの違いとして、「学校」との関わり方があります。

「居場所型」のホームスクーラーでは、元々は学校に通っていて今は通っていない、そこでまた元の学校に戻るのか? それとも別の学校やフリースクールに所属するのか? という感じで、常に「学校(所属先)」との関わりを意識してますが、「英才型」「遊行型」のホームスクーラーでは、初めから学校に通っていない、学校に期待していない場合が多く、「学校(所属先)」を念頭に置いていません。

なので「居場所型」では、籍を置いている公立学校や(※)、通っているフリースクールとの関わりが常に関係し、どの団体を選び、どう関わるかで子供の成長が大きく変わる為、親がどの団体を選択するのかが、とても重要になってきます。

(※ 文科省非認定のフリースクールや私塾に通う場合は、地元の公立学校に籍を置いたまま通うことになります。卒業の資格はフリースクール卒ではなく、籍がある公立学校卒になります。)

「英才型」「遊行型」では、親の個人的判断での教育になるので、親の方針によってホームスクールの形は千差万別になります。子供の教育を親が一身に受ける感じですね。ただ、親が一方的に教育を押し付けるというよりは、親が選択肢をいくつか用意し与えた上で、選択自体は子供の自主性にまかせる場合が多いので、あくまで親は補助役であって、主役は子供自身になります。

所謂「自由とは何か?」の問答になってしまいますが、放蕩と自由を履き違えることなく、自由には責任が伴うことを自覚した上で、何時どのタイミングで子供に「自由」を与えるか? という、なかなか難しい役目を親は担っています。


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前置きが長くなりましたが、本題です。

このようにホームスクーラーとは、大別して2つ、「居場所型 90%」と「その他 10%」があり、「その他」には「英才型」「遊行型」の2つに分かれます。

この3者は全てまとめて「日本のホームスクーラー」ではあるのですが、思っていた以上に、各々のタイプが違うなぁ、というのがこの2年間、ホームスクールを行ってきて感じた感想なのです。

ホームスクーラーと言ってもひとくくりには出来なくて、知りたい情報や、行っている教育活動、進んでいく方向性、それらが各々違うので、これらをいっしょくたにするには無理が出てくるのです。

そこで私がお勧めするのは、もしホームスクールを行っている仲間を見つけるのなら、なるべく同じタイプのホームスクーラーを見つけるのが良いかと思います。

「居場所型」なら「居場所型」。
「英才型」なら「英才型」。
「遊行型」なら「遊行型」。

というのも子供同士が似ている以上に、親同士が考えていることが似ているからです。

「居場所型」なら、どうやって学校に戻れるのか、どのフリースクールが良いかなどの話で気が合うでしょう。自分たちで新たな居場所を作ることもできます。「英才型」なら、どういった教材や、語学スクールや、体験学習やワークショップ、塾や習い事が良いかの話で合うでしょう。「遊行型」なら、お互いに一緒に似たような遊び方ができるでしょう。

もちろん、この3者は厳密に分かれているわけではないですし、3つのタイプの垣根を越えて交流することも良いことで、むしろ大事な事だとも思います。そうではありますが、同じタイプに絞って仲間を探すのも、1つの手かと思うのです。

私達親子のホームスクールとは、典型的な「遊行型」タイプです。それに少しだけ「英才型」もやっています。7:3、ぐらいの割合でしょうか。なので、もし「遊び型」でホームスクールをやっている家庭があれば、是非一緒に遊んでみませんか? 神奈川県を中心に活動していますが、日本全国キャンプで旅にも行きますので、キャンプ場などでご一緒するのも面白そうですよね。


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最後に。

昨年、同じ「遊行型」であり、子供同士の年齢が近く、家もまぁまぁ近いという、ホームスクーラーとの出会いがありました。以来、息子は一緒に遊ぶのが楽しく楽しくて仕方がないそうで、毎週のように遊ぶ仲になりました。連絡をくれたCさんには、感謝してもしきれません。

さらに、最近遊ぶようになったPさんにも、感謝しています。



(13:32)

2018年12月16日



※小学3年4月時点での話です。


家では主に私(父親)が息子の勉強を見ています。ホームスクーラーは学校の教科書の勉強をやるべきか? で意見は分かれるかと思います。

今では市販の教材やネットの動画でいくらでも勉強ができますので、学校の教科書を無理してやる必要もないかと思いますが、私達は主要5教科の教科書の勉強はやっておくことにしました。

教科書の内容は(出版社による違いも顕著ですが)よくまとまっていますし、学校のような集団での授業形式ではなく、個人でのマイペースで進めると、進度も速く理解も深まります。


小学1年の(国数)は2週間で終わります。
小学2年の(国数)は1ヶ月で終わります。
小学3年の(国数理社)は3ヶ月で終わります。
小学4年の(数理)は6ヶ月で終わります。
小学4年の(国社)は現在進行中・・・。
小学5年の(数理)は現在進行中・・・。
中学1年の(英語)は3ヶ月で終わります。
中学2年の(英語)は現在進行中・・・。

小学4年以降の教科書はどのくらいの時間で終わるかまだわかりませんが、そんなに無理して勉強しなくても、学校の半分以下の時間で終わりそうです。週3~4日、1日2~3時間ぐらい。

このペースでいけば、小学6年間と中学3年間の合計9年間の義務教育は4~5年で終わると思います。半分の時間で半分の年数で終われば、実質4分の1の時間で教科書の勉強は終わることになります。4倍の効率の良さです。

1日の残りの時間は、技能4教科の実技や、遊ぶ時間にたっぷり使えます。これはホームスクーラーの特権だと思います。それだけ時間の効率がいいのです。

ちなみに小中学校の技能教科、「音楽」「技術家庭」「保健体育」「美術」などの教科書での勉強(座学)は全て不要だと思っています。実技を通して学べば良いですし、それも興味のあるものだけで充分です。実際に「学校で習った音楽で音楽家になった」「学校で習った体育でスポーツ選手になった」という人は皆無でしょう。広く万遍なくやりすぎる必要はないのです。「選択と集中」です。

1日の残り時間がたっぷりある私達は、毎日おおいに遊んでいます。学校に通っている子供の5倍以上の時間を遊んでいると思っています。フランスの哲学者ルソーはその著書「エミール」の中で、「子供は自然の中でたくさん遊ばせよう、自然こそが教師だ。」と述べています。自然の中で学べることはたくさんあるのです。なのでなるべく晴れの日は外で遊び、雨や曇りの日は家の中で読書や映画、技能4教科の実技です。晴耕雨読ですね。

息子が12歳ぐらいになるまでは、こんなペースでやっていきたいと思います。



(23:19)

2018年10月14日


最近、7歳の息子と一緒に「マクベス シェイクスピアっておもしろい!」という本を読んで、その後、マクベスを題材にした「蜘蛛巣城」という黒澤映画を見ました。

息子が初めてこの映画を見たのは5歳の時で、ところどころのシーンを覚えてはいましたが、今回は本でマクベスを読んで、動画でマクベスの演劇を見てからこの映画を見たので、食いつきがまるで違いました。

老婆(魔女)が糸を紡ぎながら、「蜘蛛の巣城の、ご城主様」とい言うシーンや、ラストで矢が雨あられの様に飛んでくるシーンなどがお気に入りで、老婆に至ってはモノマネを始める始末です。

続いて同監督の「用心棒」を見たら、「兎の助、猪の吉がかっこいい!」と言い出し、ラストの丑寅一家が一斉に刀を抜くシーンなどに魅入ったようです。最後に絹問屋が団扇太鼓を叩くシーンのモノマネもやりだしました。

(youtubeで「ゆらゆら帝国 『つきぬけた』」で検索すると、いい動画がありますよ)

「椿三十郎」では、「椿を水に流すシーンが好き」と、おいおい7歳で渋いじゃないか。

「隠し砦の三悪人」では、太平と又七がお気に入りで、終始、大爆笑していました。ちなみに私は雪姫の「だめじゃ!」のモノマネをよくやります。

黒澤映画で、息子は主役の三船敏郎も好きですが、ヒール役の仲代達也や、道化役の藤原釜足がお気に入りのようですね。

「赤ひげ」だけは前から好きで、息子はもう5回は見たでしょうか。保本を見て、「だんだん素直になっていくね」と言ったり、赤ひげがチンピラ共の骨を次々と折るシーン、女達が女郎屋を大根で叩いて追い返すシーンが好きだったり。5歳の時は「カマキリ女!」とよく叫んでたのですが、今回は無関心でした。息子もあの長坊と同じ7歳になったんだなぁ。

1週間たて続けに黒澤映画を見て、今夜の締めは「七人の侍」です。5歳の時は菊千代が好きでしたが、7歳の今は誰が好きだろう? 今回は百姓の「万造」とか言いそうですね。

私? 私は、七郎次の顔が好きです。

黒澤映画は、美しい映像と音楽、迫力ある俳優の演技、チャンバラ、笑いを誘う数々のシーンなど、日本が誇る素晴らしいエンターテイメント映画だと思います。それにお色気シーンも無いので、子供と安心して楽しく笑って見ることができますよ。

(13:40)

2018年10月11日


家族3人で毎日楽しく過ごすホームスクールの日々ですが、息子に唯一足りないのは、同年代の子供達と何気ない日常を遊ぶこと、でした。

私や妻の直接の友人の子供達と遊ぶことはありましたが、月に1度ぐらいのペースでしたので、もっと増やしてあげたいなぁと常々思っていました。

そこで一念奮起して、このホームスクールのブログを始めてみました。それが2018年7月のこと。携帯を持たずSNSすらやらない私達でしたが、あえてLINEを始めてみて、埼玉のホームスクーラーOさんと連絡を取り合い、埼玉県のホームスクーラーの方々と会ったのは8月のこと。Oさんのおかげで神奈川県のホームスクーラーと出会うこともでき、何回か遊ぶようにもなりました。

このブログも読んでくれる方もかなり増え、直接メールを送ってくれる方も現れてきて嬉しい限りです。メールをくれたホームスクーラーとも仲良くなり、毎週遊ぶような仲にもなりました。

親が何かしら行動を起こすことで、それが子供の為になるのなら、行動してみて良かったと思いました。遊び友達が増えてきた息子は、今までにも増して毎日を楽しく過ごしています。

このブログを読んで一緒に遊んでみようと思っている方がいらしたら、気軽に連絡をください~。


(23:35)

2018年10月01日


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息子を寝かしつけるのに、本を読み聞かせるのは私(父親)の役目。7歳の現在では、「マクベス シェイクスピアっておもしろい」を読んでいます。

この本は、子供でもシェイクスピアを読めるように分かりやすく書き直されていて、しかも子供達のかわいい挿し絵付き。更には英文とその単語の訳までついているので、英語の勉強にもなります。

息子が最近、詩に興味を持ちはじめたので、妻がこの本を見つけてきました。

私が18歳、大学に入学したての頃、校内の本屋には街の大型書店ばりに本がたくさん並んでいて、そこで何気なく手に取ったのが、マクベスでした。

衝撃的でした。

こんなに面白い本があるのかと、身震いしたのを覚えています。

「良いことは悪いこと。悪いことは良いこと。」

「やってしまって、それで事が済むのなら、早くやってしまった方がよい。」

「女から産まれ落ちたものに、マクベスは殺せない。」

美しい言葉に感動を覚え、すぐにシェイクスピアの他の著作、オセロー、夏の夜の夢、十二夜、ハムレット、リア王などを貪り読んだものでした。

その本達を現在、息子に読み聞かせようと何回か試してはみたのですが、シェイクスピアは劇作文(私の好きなプラトンの著作は対話形式)ですので、自分自身で読む分には良くても、相手に読んで聞かせるにはかなり難しい本達です。

そんな時にこの「シェイクスピアっておもしろい」シリーズを見つけ、しかも小説形式で読めるではありませんか。

息子はマクベスがかなり気に入ったようですので、次は本物のマクベスの劇を動画で見せ、黒澤明の映画「蜘蛛の巣城」を見せ、英語で読み聞かせ、最後に息子自身で読んでもらうつもりです。


(23:35)

2018年08月29日

先月に知り合い、先日お会いした埼玉県のホームスクーラーの方に記事を書いてもらいました。

https://medium.com/homeschooljp/ホームスクーラーとお出かけ-企画者いろいろ-f38ce6eb7d9a

メンバーがもう少し増えたら、お出かけ企画を予定しています。神奈川県で興味のある方はご連絡ください~。


(12:01)

2018年08月06日


学校の起源とは、紀元前ギリシャのプラトンが作ったアカデメイアが学校の始まりだと言われていますが、あれは少し特殊な学校で、現在のような学校は近代国家の成立とともに作られたと言われています。

近代国家の要は、戦争と経済です。戦争に必要なのは軍隊、経済に必要なのは工場でした。日本の明治時代がイメージしやすいですよね。
 
今まで戦争を担ってきたのは戦士や武士などの戦の専門家でしたが、近代国家は徴兵制を取り、今まで戦争をしたことのない階級の人々、農民や職人や商人など、彼らを兵隊にします。

同じように今まで工場で働いたことのない人々、彼らを工場労働者にします。

そこで、必要になったのは、「病院」と「学校」でした。

病院は、大量の負傷兵を治療するために必要でした。コンクリートの建物と硬直的なシステムなど、学校と病院が現代でも似ているのは、起源が同じだからです。

学校は、兵隊や工場労働者を大量に作り出すため、最低限の読み書き計算と時計の見方、そして集団行動としての規律を教えます。

お互いの言葉がわからなかったり、説明書が読めなかったり、火薬や生産物の量を計算できなかったり、時間通りに行動しなかったり、集団行動ができなければ、その軍隊や工場にとって致命的ですよね。

特に必要とされたのは、時間厳守と集団規律でしょう。それが、現代の学校にも脈々と受け継がれているのです。


(16:51)

2018年08月01日


前回の話は、「人間という種の幅」は余りに圧倒的で、日本という島国の中での日本人各々の差異などほとんど無い、といった話でしたが、今回はその真逆の話、人は見ている世界が各々まるで違う、という話です。

「人は自分の見たいことしか見れない」

よく聞く言葉ですよね。

「見る」という言葉を、「聞く」とか「話す」とか、他の言葉に替えても同じことが言えるかと思います。

例えば、自分達は子供をホームスクールで教育したいのに、学校や親族に説明しても話がいつまでも平行線だったり、話が噛み合わないなど、よくあることですよね。

ちょっと意味が違うかもしれませんが、哲学に「現象学」という学問があります。ヘーゲルやフッサールが有名ですが、確かこんな話です。

・・・・・・

我々は外部世界を知覚するとき、単純に五感のみで、諸々の現象を判断するのではない。今見えている光景は、視覚だけをもってして、そう見えているのではない。見られる対象(客観)と、見る側(主観)の間には、視覚の他に「観念」や「経験」や「志向性」など、いろいろな要素が挟まれる。

例えば、森の中の木に首吊り用のロープがぶらさがっているとする。そのロープは自殺するために存在するロープなのだが、「ロープは自殺するためにぶらさがっている」という観念を持たない者、未開部族には、そのロープは森の中の1つの風景として見えて、ロープ自体は認識できない・・・「観念」

例えば、いつも通勤中に通る道がある。その景色は厳密に言えば毎日変わるはずなのだが、「その道はいつもこんな景色をしていた」という経験的な判断によって、我々はその道を見てしまっている。よほどの変化がないかぎり、いつもの景色は新たに再認識されることなく、いつもの景色として、視覚をほぼ通さずに処理されてしまっている。なので、そこに咲く花に興味がない人間には、毎回変わるその花が認識できない・・・「経験」

例えば、空腹のベジタリアンとノンベジの2人に、サバンナの景色を見させる。ベジタリアンは植物に意識を向け、ノンベジは動物を見るだろう。2人は同じ景色を見て、別々の存在を知覚している・・・「志向性」

ようするに、「客観的な世界ではこうだ」と言うことには、何の意味もない。客観は主観によって変容するからである。無限の数の主観は存在すれども、誰もに共通する客観的な世界など存在しない。

「客観 ⇔ 主観」

と、両者は別々に存在するのではなく、

「客観 ←(働きかける)← 主観」

として、客観は主観の能動(志向性)の上に成り立ち、客観は主観によって変容し、主観は客観に内在してはじめて存在する。この働きを「現象」という。

・・・・・・

こんな話は、あたりまえだと言えばそれまでですが、私は19歳の時に「現象学」を学んで感動したのを覚えています。

話をホームスクールに戻します。

「人は自分の見たいことしか見れない」

ホームスクーラーと、学校派の人々とでは、ベジタリアンとノンベジくらい、互いが見ている世界が違うと思うのです。その差を埋めるのは容易ではありません。お互い、「観念」や「経験」や「志向性」がまるで違うのですから。

「人は自分の見たいことしか見れない」のなら、ホームスクーラーはホームスクーラー、学校派は学校派、互いが互いを尊重して、我が道を行けばいいと思うのです。

誰もが共通の「客観」なるものは、存在しないのですから。


(14:59)