ホームスクールと哲学

2023年04月10日



ここ最近の記事では、英検の話や小中学校のホームスクールの事務手続き的な話ばかり書いていたので、今日はホームスクールにおいての子育てについて私の思いと言うか信念というか、哲学と清貧について、そんな話をしようと思います。まとまりのない話です。

私と妻は、息子が産まれる10年前からバックパッカーでずっと旅をしていました。主に東南アジア、インド・ネパール・バングラ、トルコなどを旅してましたが、特に好きな国はイスラム教の国々でした。安定した社会と人々の親切心が際立っていたからです。

私の性格は、物事を外部から影響を受けて行動するのではなく、まず初めに私の信念があって、それを実際の体験と結び付ける為、信念を証明する為に行動します。

例えば「豊かさ」とは金銭や物質の多寡ではない事を知ってる上でインドを旅します。ほら、やっぱりね、と。なのでインドに行って「人生が変わった!」みたいな影響を受けることはないです。

ホームスクールも、実行する前から明確に思い描いてきたし、その通りに経過していると思います。

信念の背景は大学生の時からずっと勉強してきた「哲学」です。

哲学と言うと胡散臭い宗教の様に思われがちですが、まるで逆です。宗教とは「教祖(元は哲学者)の教えを守ること」ですが、哲学とは「教えや常識を破壊し自分で考えること」です。ニーチェの「神は死んだ」や、仏教の禅で「仏に逢うては仏を殺せ」という様な意味です。ほとんどの哲学者が宗教とは無縁なことからもわかります(※)。

※西洋哲学者などの実際はほぼキリスト教がバックボーンにあるという話とは別にしておきます。広義の意味で哲学者(哲人)は無宗教だと言う話です。

私の哲学の勉強も、初期イオニア学派から・ギリシャ哲学・デカルト・カント・ヘーゲル・ニーチェ・実存主義という王道を学んできました。その中でも好きな哲学は、ソクラテス・老壮・ストア哲学なのですが、とりわけプラトンが好きで好きでたまりません。

プラトン著の「饗宴」や「ゴルギアス」は、何度読んでも涙が出ます。2400年も前の書籍なのにです。

私は学者ではないので、実際の「哲学・各論」については詳しくないのですが、人間として生まれてきたからには2つの命題、「私はなぜ生まれてきたのか? 」「私はいかに生きるべきか? 」について、これは一生をかけて考え、実行すべき事柄だと思っています。前者は「自然科学」であり、後者は「社会科学」「人文科学」でもあります。


では実際に日本社会を生きる一人の日本人として、哲学が人生にどう関わってくるのか?


落ちぶれたとはいえ、日本は圧倒的な「物質大国」です。しかし「精神」が貧しい、哲学がない。他国はキリスト教、イスラム教、仏教などの宗教で人々の暮らしや精神や哲学を補っていますが、日本にはそれがない。

仏教も儒教も神道もない。日本は東南アジアの仏教国とも似つかない、中国の儒教とも違う、アジア・アフリカにある自然崇拝(アニミズム)もない、欧米のキリスト教合理主義とはまるで違う。武士道は完全に無くなった(三島由紀夫が切腹するわけです)。近いのは「物質主義」「拝金主義」で、中国人やユダヤ人に近い。似ている。世界を旅してると分かります。

日本人には宗教も哲学もない。歴代の日本の統治者もそれを痛いほど分かっていた。だから飛鳥時代に仏教を取り入れ、江戸時代に儒教(朱子学)を取り入れ、明治時代には天皇制を持って来た。しかし第二次大戦後には元の木阿弥。どれも定着しなかった。戦後にアメリカ物質主義を持ち込んだが、それも廃れるであろう、空白の時代。

こういった空白の時代には、確固とした自分を持って生きるべき(信念)だと思います。その信念もすぐに止揚されるような、流動であり不動である信念。それを私は「哲学」だと呼んでいます。それをホームスクールで育てている息子に少しずつ伝えていきたい。

日本社会は「ガラパゴス」と揶揄されますが、正にその通りです。哲学なく、島国らしい独特な方向へ進化(退化)していってます。日本社会というその小さな殻を若くして破る為に、息子を連れて海外を旅して、あらゆる世界を見せて行きます。


少しお金の話をします。


私は一般的に「中の上」ぐらいの経済力の家庭で生まれ何不自由なく育ったのですが、大学生の時に一人暮らしを始めた時から「清貧」な生活をあえて選びました。奇しくも私の好きな哲学者は全員「清貧」でもありました。

持続可能な暮らしを見る為に、自給自足している原住民族の家にホームステイ体験などもしました。ちなみに現代で言うところの「SDGs」や「環境保護」「人権」などは大嫌いです。太陽光発電大嫌いです。そういった偽善や政治的意図ではなくて、もっと実存的な哲学的な「持続可能性」と「清貧」な暮らし。

海外を旅する時の予算は、月に6万円ぐらいです。宿泊費も食費も交通費も航空券も全部いれてです。3人家族なので月に1人2万円。半年行って30万円ちょっと。安いと思います。高い航空券代を相殺する為に、旅は必然的に長めになります。

向こうではよくアパートを借ります。民泊もします。現地の市場にいって現地の物価で買い物して自炊したりします。そしてよく歩きます。ひたすら歩きます。観光地はほとんど行きません。暮らしているのです。そうやって行く先々の国で、地元民の目線でその国を見てまわります。

そうすると、実は「英語」がいらなくなります。必要なのは現地語、それも10単語も覚えればなんとかなります。英語を学んでいる息子ですが、本心は英語よりも10単語で旅できるような実用的な経験値をこれから少しずつ増やしていって欲しいです。

日本でも清貧な暮らしをしていると思います。

日本の子育てはお金がかかると言われますが、我が家に限って言えばお金はほとんどかかっていません。

結婚式なし、出産費用なし(出産育児一時金ぴったり)、託児代なし、保育園代なし、塾代なし、習い事代なし、こういったものの必要性を夫婦2人ともに全く感じませんでした。

公立小の学費なし、公立中の学費なし、食費と衣類代が少々(これも児童手当でほぼ無料でした)、12歳までにかかった費用は参考書代が12年で5万円、書籍代が5万円、英検代が3万円ぐらいのものです。

これからも、高校は無償化で無料、予備校代なし、大学もおそらく無償化されると思います。


経済的な理由で出産を躊躇する若者達には、「子育ては、お金が有れば有るだけかかるけど、無ければ無いでなんとかなるよ」と言いたいです。

塾や予備校行くなら親が教えます。その為に勉強しなおします。10歳ぐらいから息子は自分で完全独学してますので、教える必要もなさそうです。習い事行くなら、例えばスイミングスクール代1年分で、タイに3ヶ月行って海やプールで毎日泳ぎます。

「貧乏」とは言わず「清貧」と名乗るのは、貧しさを感じていないからです。むしろ「優雅」だと思っています。海外を旅し、国内はキャンプ、読書、映画、楽器演奏での日々の暮らしなんて、優雅だと思いませんか? 私達が日々の生活で意識するのは「芸術」です。音楽・絵画・映画・文学です。本当に人生を豊かにしてくれます。芸術にもお金は全然かかっていません。ミケランジェロの画集なんて1日眺めていても飽きません。だから「清貧」と名乗ります。

ちなみに妻は料理が好きで、妻が作る手料理は本当に美味で「毎日、外食みたいだね」と息子と頬張っています。パンでも何でも、自分で作っています。

古い一軒家をリフォームしています。何でも自分で直せるようになってくると、経済的な安心感に繋がります。芸術も料理も建築も「創造」です。日々、創造に溢れる暮らしは、経済的で豊穣です。


こういった生活とホームスクールでの生活は、相性抜群なのです。



(16:17)

2022年06月01日



もし自分の人生の幸福の総量を、人生のどのタイミングで使うのかを自分自身で決める事ができるのならば、私は15歳までに全幸福の80%を使おうと思います。

0~15歳までの幸福は、その後の人生に決定的な影響を与えるからです。こどもの頃に楽しい思い出がたくさんあれば、その後の人生で辛いことがあっても、乗り越えることができる。

変な例えですが、こどもの頃に幸福をたくさん貯金しておけば、後の人生はその利子だけで何とかなる。

これは、誰かの研究でそういった結果が出ているとか、データで証明できるとか、そういったものではないのですが、あながち間違ってはいないと思っています。

ギリシャ哲学では、証明することはできないが正しい意見の事を「ドクサ(臆見)」と呼び、証明することができて正しい意見の事を「エピステーメー(知識)」と呼びます。

私のホームスクール用のニックネームは「えぴす」ですが、この「エピステーメー」が由来です。ですが私のブログのほとんどは「臆見」ばかりです。「臆見」なので、好き勝手書きたいと思います。いつか「えぴす」の名に恥じない、いいブログが書ければいいんですけどね・・・。



時間について。



人間の一生が80歳だとすれば、その折り返しは40歳、では決してない。

時間という存在は絶対的ではなく、相対的なものだからです。人生の折り返しはきっと、15歳よりも前のはずです。

産まれてから最初の15年間と、その後の65年間を、どちらが長かったかと比較してみたら、きっと前者だと答えるのではないでしょうか?

そう思う理由が2つあります。1つ目は「ゾウの時間、ネズミの時間」という話。

あんなに体が大きなゾウの寿命100年と、あんなに小さなネズミの寿命1年でも、一生の体感時間はゾウもネズミも同じだという話です。どちらも心臓をおよそ20億回鼓動したら寿命が尽きる。それは他の哺乳類にもだいたい当てはまるそうです(爬虫類や微生物などがどうなのかは不明)。

こどもの心臓に手をやってみると、びっくりするぐらい鼓動が速いですよね。そして体もとても小さい。上記の話が本当ならば、こどもは明らかに私達大人よりも長い時間を生きている。体感している。

だから、こども時代の15年間は、ただの15年間じゃないんです。自分がこどもだった時を思い出しても、1日がとても長かったですよね。そして歳を取るにつれ、1日が1ヶ月が1年がとても短い。50歳から80歳なんて、もう本当にあっという間じゃないでしょうか?

2つ目の理由は、「リターン・トリップ・エフェクト」。旅行に行く時に、行きよりも帰りの方が速く感じる話です。

この話は学説としてまだまだ固まっていないそうですが、私の「臆見」だとこうです。

まだ見ぬ知らない土地への旅行。見える景色も聞こえる音も漂う匂いも、知らないことだらけ。初めての経験。私の感官はその外部世界を必死に「認識」しようとします。その「認識」こそが、時間がゆっくり流れているように私に感じさせるのです。

ところが帰り道は、すでに一度見た世界。私の感官はその外部世界を認識するのに手を抜いてしまいます。「認識」しようとしないのです。それが、時間が速く流れているように私に思わせるのです。

これは人生においても、同じことだと思います。

こどもの頃は、出会うこと全てが、初めての経験。1日がとても長く感じていた。でも歳を取るにつれ、毎日が同じ事の繰り返しになっていく。1日があっという間に過ぎていく。

だから、こんな理由で、最初の15年間とその後の65年間では、最初の15年間、こども時代の方が長いと、思えるのです。


最初の「幸福」の話に戻ります。


こどもの頃の15年間は、人生の半分以上、いや、人生のほとんどと言ってしまってもいい。だからこそ、息子には幸福感に包まれながらこの15年間を過ごして欲しい。

もしも息子が自力でできない事があるのなら、親の手助けが必要です。息子にとって何が一番の幸福かを見極め、学校へ行くことなのか、学校へ行かないことなのか、遊ぶことなのか、勉強することなのか、友達と一緒にいることなのか、孤高を磨くのか、どれが一番良いのか、しっかり見て、そっと手を差し伸べたいと思います。

私達「親」は、もう自分の「15年間」を変えることはできませんが、息子の「15年間」を少しでも良い方向へ変えることは、できると思うからです。




(23:10)

2020年06月19日


コロナ騒動によって、思っていた以上に社会が変わりましたよね。かつてのペストのように人口が3分の1に減ったわけでもないのに、これだけ社会が変化するとは、何かの「陰謀論」ではないですが、予定調和的に社会を変えようとしている何かがあるのでは? と思っているのは私だけではないはず。

私は、このコロナウイルス自体は毎年流行している季節性インフルエンザとそうは変わらない、ただのウイルスだと思っています。コロナの方が即効性・感染力は高くとも、インフルエンザでは毎年10000人が亡くなっているので、致死率で言えばインフルエンザの方がはるかに怖いのです。

イスラエルへの旅の記事でも書きましたが、他のウイルス、交通事故、自然災害、戦争、テロ、治安、自殺率など、あらゆる「死」に至る原因と比較して、何を恐れて、何を恐れないか、それは各人の「バイアス」次第なのでしょうが(その人にとって何が恐怖かは、その人のかけている色眼鏡によって人それぞれ違い、その色眼鏡を選ぶのもその人自身の経験や判断からくる)、私の色眼鏡では、コロナはそれほど恐れなくていいウイルスです。

子供達の抵抗力に関して言えば、今のところほぼ無害と言っていいウイルスです。もちろん、今後変異するのか、他人への感染はどうするのか、という問題はありますが、子供はコロナを恐れることなく、普段通りに過ごせば良いと思います。

ところで、年齢別に死因順位を調べたデータがあります。トップ順にみると、



05~09歳 1位・事故  2位・癌  3位・心疾患
10~14歳 1位・癌   2位・事故 3位・自殺
15~19歳 1位・自殺  2位・事故 3位・癌



となっています。この年齢での癌と心疾患を個人の先天的な病と考えるならば、5~19歳までに亡くなる後天的要因としては、ほとんどが事故と自殺によるもので、病気やウイルスで亡くなる可能性は少ないということです。5~19歳の事故の原因別では、



1位・交通事故  2位・溺死  3位・火災



となります。今回のコロナ騒動によって社会が大きく変わってきていますが、公共交通機関(電車やバス)よりも、自家用車や自転車での通勤通学が増え、それによって交通事故も増えるでしょうし、室内よりもキャンプや屋外活動などアウトドアの遊びも増えているので、海や川遊びでの水難事故も増えてしまうと思われます。

漫画「寄生獣」で、寄生獣ミギーが主人公の人間に忠告する場面がありますが、「出会う確率の少ない寄生獣(殺人鬼やテロ)より交通事故に気をつけろ」と言うのと同じように、私も思うのです。大人も子供もコロナを恐れるよりも、交通事故や水難事故に気をつけた方がいいと。

もちろん、これは「気をつける」という意味であって、私達は昔も今もこれからも、率先して自転車でサイクリングに行ったり、キャンプしたり、海や山でアウトドアで遊びます。特にアウトドアは、良い経験こそが事故を未然に防いでくれるでしょう。


次に、「自殺」についてです。


日本では15~39歳まで死因のトップが自殺なのです。特に10~19歳の自殺率の高さは世界トップクラスです。学生の自殺の原因は「いじめ」「進路・学業」「親子関係」などがありますが、原因は複合的に絡み合うので、「原因不明」が一番の理由になってしまうそうです。

このうち「いじめ」「進路・学業」に関して言えば、ホームスクールをしている限り無縁だと言えそうです。塾でも通わないかぎり、級友による「いじめ」は有り得ない事ですし、自殺に追い込むほど「進路・学業」に熱をあげているホームスクーラーもそうはいないでしょう。むしろその逆、「進路・学業」に関して寛大な方向へ導いているのがホームスクーラーの特徴だと思うのです。


最後に話はそれますが、「人間を殺す生物は何か?」ランキングというのがあります。

1位  蚊
2位  人間
3位  蛇
4位  犬(狂犬病)
5位  ツエツエ蠅
6位  吸血昆虫
7位  カタツムリ
8位  寄生虫
9位  ワニ
10位  カバ・ゾウ・ライオン

だいたいこんな感じです。

私達が海外を旅していて気をつけているのは、1に交通事故、2に犬(狂犬病)、病気は3番目ぐらい。4に蛇で、5に地震、6にクラゲ、です。一度犬に噛まれて、5回も注射しました。東南アジアに長期で旅する時はいつも寄生虫駆除の薬を飲んでいます。パキスタン北部の山岳地帯では飲料水が恐怖でした(おなかがパンパンになります)。バングラデシュでは妻がワニに噛まれそうになりました。

息子には、色々な怖さを客観的に見れる人間になって欲しいと思います。



(15:59)

2018年08月01日


前回の話は、「人間という種の幅」は余りに圧倒的で、日本という島国の中での日本人各々の差異などほとんど無い、といった話でしたが、今回はその真逆の話、人は見ている世界が各々まるで違う、という話です。

「人は自分の見たいことしか見れない」

よく聞く言葉ですよね。

「見る」という言葉を、「聞く」とか「話す」とか、他の言葉に替えても同じことが言えるかと思います。

例えば、自分達は子供をホームスクールで教育したいのに、学校や親族に説明しても話がいつまでも平行線だったり、話が噛み合わないなど、よくあることですよね。

ちょっと意味が違うかもしれませんが、哲学に「現象学」という学問があります。ヘーゲルやフッサールが有名ですが、確かこんな話です。

・・・・・・

我々は外部世界を知覚するとき、単純に五感のみで、諸々の現象を判断するのではない。今見えている光景は、視覚だけをもってして、そう見えているのではない。見られる対象(客観)と、見る側(主観)の間には、視覚の他に「観念」や「経験」や「志向性」など、いろいろな要素が挟まれる。

例えば、森の中の木に首吊り用のロープがぶらさがっているとする。そのロープは自殺するために存在するロープなのだが、「ロープは自殺するためにぶらさがっている」という観念を持たない者、未開部族には、そのロープは森の中の1つの風景として見えて、ロープ自体は認識できない・・・「観念」

例えば、いつも通勤中に通る道がある。その景色は厳密に言えば毎日変わるはずなのだが、「その道はいつもこんな景色をしていた」という経験的な判断によって、我々はその道を見てしまっている。よほどの変化がないかぎり、いつもの景色は新たに再認識されることなく、いつもの景色として、視覚をほぼ通さずに処理されてしまっている。なので、そこに咲く花に興味がない人間には、毎回変わるその花が認識できない・・・「経験」

例えば、空腹のベジタリアンとノンベジの2人に、サバンナの景色を見させる。ベジタリアンは植物に意識を向け、ノンベジは動物を見るだろう。2人は同じ景色を見て、別々の存在を知覚している・・・「志向性」

ようするに、「客観的な世界ではこうだ」と言うことには、何の意味もない。客観は主観によって変容するからである。無限の数の主観は存在すれども、誰もに共通する客観的な世界など存在しない。

「客観 ⇔ 主観」

と、両者は別々に存在するのではなく、

「客観 ←(働きかける)← 主観」

として、客観は主観の能動(志向性)の上に成り立ち、客観は主観によって変容し、主観は客観に内在してはじめて存在する。この働きを「現象」という。

・・・・・・

こんな話は、あたりまえだと言えばそれまでですが、私は19歳の時に「現象学」を学んで感動したのを覚えています。

話をホームスクールに戻します。

「人は自分の見たいことしか見れない」

ホームスクーラーと、学校派の人々とでは、ベジタリアンとノンベジくらい、互いが見ている世界が違うと思うのです。その差を埋めるのは容易ではありません。お互い、「観念」や「経験」や「志向性」がまるで違うのですから。

「人は自分の見たいことしか見れない」のなら、ホームスクーラーはホームスクーラー、学校派は学校派、互いが互いを尊重して、我が道を行けばいいと思うのです。

誰もが共通の「客観」なるものは、存在しないのですから。


(14:59)

2018年07月30日

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人間という「種」の振り幅とは、どのようなものでしょうか?

人類最初の女性(通称エヴァ)は、アフリカ大陸の現在のエチオピアの地で生まれたそうで、そのたった一人の女性から現生人類は派生していったそうですので、人間という「種」の振り幅とは、アフリカ大陸から出ていく過程、「黒人→黄色人→白人」の順のような感じで、変化していったと私は思っていたのですが、どうやら完全に間違っていたようです。

文化、言語、宗教、身体的特徴、DNAなどなど、いろいろな材料で判断してみると、実際は、こうらしいです。

「黒人~黒人~黒人~黒人~黒人~黄色人~白人~黒人~黒人~黒人~黒人~黒人」

どういうことかと言うと、人間という「種」の振り幅というのは、一番左の黒人から一番右の黒人までが、その最大の振り幅であって、黄色人と白人の違いなんか、その中にすっぽりと納まってしまうそうです。

上の図で言うと、一番左の黒人と一番右の黒人の違いが人として最も違いが顕著なもので、それに比べれば、白人と隣の黒人の違いなんか、ほとんど無いに等しいそうで、黄色人と白人なんて同種と言っていいぐらいです。

アフリカ大陸に住む黒人には、人間という「種」の全ての振り幅が存在する、と言っても過言ではなく、それほど多様で渾沌なのです。

そう考えれば、同じ日本人という中で、「学校に通っている子供」と「学校に通ってない子供(ホームスクーラー)」の違いというのは、もうそれこそ、取るに足りないほどの、小さな小さな小さな違いでしかないのです。

我々日本人というのは、世界でも類を見ないほどの圧倒的な同質性の中で暮らしているので、そのわずかな違いが物凄く大きな違いのように感じてしまうかもしれませんが、世界各地を旅してまわってみると、世界はあまりにも多種多様で、日本という小さな島国の中で、学校に行くとか行かないとか、そんなことはただの「選択肢」の問題であって、肝心なのは学校どうこうではなく、自分の子供が「どう生きるか」だと思うのです。


(23:23)

2018年07月22日

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※画像は3歳の時、モロッコのリヤド(古い邸宅)にて

私達のホームスクール3つの柱の1つ、哲学について。

哲学と言っても、古代ギリシャから現代思想までの哲学者たちの哲学を学問として息子に教える、という事ではありません。

児童書の「りんごかもしれない」「ぼくのニセモノをつくるには」の内容のように、子供としての純粋な疑問、存在への不思議さ、自分とは何か、他人とは何か、そういった事柄を少しだけ意識して生きていく、そういう軽めの哲学です。

例えば、ソクラテスの「無知の知」を引き合いに出して、大人だって親だって知らないことはたくさんある。いや、むしろ知っていると思い込んでいる分だけ、子供よりもたちが悪い、そう話しながら、息子と一緒に「知るとは何か?」「今、勉強していることの本質は何なのか?」を話し合ったりしています。

息子の算数の勉強を見てても、息子の「何で勉強をするの?」という問いから、「勉強は将来の役に立つのか?」「役に立つから勉強をするのか?」「役に立つことは良いことなのか?」という話から、荘子の「無用の用」の話へ脱線していくなど、哲学というよりもおしゃべりに近いかもしれません。

ただ、こういう何気ない話を、私も息子も、楽しんでます。

幸い息子は哲学者の話も好きらしく、タレスの「万物の根源は水である」という話や、ヘライクレイトスの「同じ川に人は2度入れない」という話などに興味を持ってくれて、哲学大好きの私としては嬉しい限りです。ソクラテスが毒人参を飲んで死んでしまう話などは、「毒の人参があるんだ」という、違った意味で話が面白かったようです。

こういった話を、哲学だけでなく、旅も、音楽も、息子はすぐに忘れてしまいますが、「忘れる」ことこそが人間の本質、プラトンのイデア論でいう「想起(アナムネーシス)」への伏線、と言ってはかっこつけすぎですが、ホームスクーリングで過ごす幼小時代は、どんどん覚えて、どんどん忘れていけばよいと思っています。


(19:08)

2018年07月21日


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息子を寝かしつけるのに、本を読み聞かせるのは私(父親)の役目。5歳の時には、「プチ哲学シリーズ」を読んでいました。


「デカルト氏の悪霊」をはじめ、「カント教授の多忙な一日」「アインシュタインのひらめき」などがありますが、息子のお気に入りは、「崇高なるソクラテスの死」という本です。


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「ギリシャ人って、「ス」ばっかりだね。ソクラテスとか、メレトスとか、アリストファネスとか。」と、息子は言います。おかげで、日常で「ス」が最後につく言葉、「ピタゴラス」とか「フセンヌス」とかが出てくると、妻と3人で大笑い。

「走れメロス」も大好きなのだが、メロス、セリヌンティウスも「ス?」「ス?」と聞いてくるのが、またかわいい。

走れメロスは、息子と二人で海岸沿いのサイクリングロードを走る時、夕日が沈みかけた時の、定番の話。あまりに話に聞き入ってしまって、前方を全く見なくなってしまう時は、ヒヤヒヤもんです。

その後に読んだのは、夏目漱石の「こころ」。話がクライマックスまでくると、物語に出てくる「先生」が、すでに死んでしまっていることが悲しいらしく、その「先生の遺書」を読んでいても、「先生って死んでるんだよね?」と何度も聞いてきます。

死んでいる人間の遺書を読んでいる、と言っても、死んでいるのに何でしゃべっているんだろう?と不思議がっているのでしょうか?

主人公の「私」については、ちっとも名前が出てこないので、「私って誰?」と、聞いてくるのですが、先生も名前はないし、どう答えたらいいか難しい。でもね、名前なんて重要ではないんだよ。

しかし「こころ」は、30代後半で改めて読んで、今こそが一番、私の心に響いてきます。とりわけ、何者でもない先生、が何者でもないことが、まるで自分のことのように思えてきます。

トランプが興じて、麻雀を教えはじめ2週間、当時5歳の息子はついに、誰の手も借りずに、「立直一発自摸ドラ3」をあがったのです。フリテンであがっているところはご愛嬌ですが、トランプで負けることが多くなってきたので、麻雀でも抜かれる日は、もうすぐでしょう。

(7歳の時点で、息子は半荘の4回に1回はトップを取れるようになりました。ちなみに、私と妻と息子の、3人麻雀でですが。)

麻雀をやっている時のBGMは交響曲が多いのですが、特に「魔王」が大好きで、物真似ばっかりしてます。そんな息子が、私の曲を聞いて、「父ちゃんの曲、好き。」と言ってくれた時ほど、嬉しいことはありませんでした。

「自分色に染め過ぎではないか?」と思われるかもしれませんが、父親色が全く出ないよりは、よっぽどいいと思っています。

いや、染めようと思っても、やっぱり妻の息子に与える影響には、足元にも及びません。私が「人為」なら、妻はまるでルソーの著作「エミール」に出てくる「自然」のようです。何かを教えるわけでもない妻の背中を見て、息子はすくすくと育っています。

息子の成長を見るのが、楽しくてしょうがない日々です。


(16:12)

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息子を寝かしつけるのに、本を読み聞かせるのは私(父親)の役目。6歳の時には、「ソフィーの世界」を読んでいました。


西洋哲学史の流れをつかむにはちょうど良い本ですが、小説としての話も長々とあるので、小説部分は飛ばしながら読んでいきました。

息子にはまだ読んでませんが、講談社選著メチエに「現代思想としてのギリシャ哲学(古東哲明)」という本があり、私が今まで読んだ本の中で10指に入るお気に入りの本なのですが、ソフィーの世界は、この本をいつか読んで聞かせるための布石です。

私自身が哲学という学問を知ったのは大学生の時で、高校時代には「倫理」の授業は1時間すら無かったですし、親も哲学とは無縁の人でしたので、大学生になるまで哲学を知る機会が全くなかったのです。

もちろん、自分自身で街の本屋に行き、全く知らない「哲学」のジャンルの本を手に取って買っていれば良かったのですが、もっと早いタイミング、それこそ中学生になったぐらいの年頃で知っていればと、そこには悔いが残るのです。

それの投影になってしまうのかもしれませんが、息子には若い時分から哲学を身近に感じてもらい、「自分で考える」ということに早く気づいて欲しいと思っています。

ホームスクールを行っている家庭ならわかっていただけるかと思いますが、子供が自主的に何かをすることをひたすら見守ってあげるのか、それとも親が機会を与えて子供の方向性を広げて行くのか、双方が理想的なのでしょうけど、私は後者を選びたいと思います。

哲学だけでなく、音楽や旅や、色んな機会をそっと子供に与えて、それに影響を受けるのか、全く影響を受けないのか、それは子供に任せたいと思いますが、幸い妻が子供のやりたい事を見守るタイプですので、夫婦が互いに逆のタイプであるのは、いいことだろうなと思っています。


(16:12)

音楽は子育てにとってとても重要だと思ってます。まずは、音楽とは何か?を、自分なりに説明してみたいと思います。


芥川龍之介の文章は、五感を刺激するといいます。すなわち、目で見て、耳で聞いて、舌で味わって、匂いを嗅いで、肌で感じる、文章表現としてバランスよく配置されているそうです。

では音楽は、五感をどこまで刺激するのでしょうか? 耳で聞くのはもちろん、演奏風景を目で見て、重低音は肌で感じられます。しかし「味」「匂い」はどうでしょうか? 古代の音楽が祭りと切り離せなかったのは、そこに足りない「味」と「匂い」を補うためだと思うのです。

人間の言語機能と結びつくのは、感覚のうちで「視覚」「聴覚」「触覚」です。

文字を目で見る。言葉を耳で聞く。文字版を触って読む。味覚と嗅覚では、言語を識別できないのです。味覚と嗅覚が足りないという意味で、「音楽」とは「言葉」のことではないでしょうか?

言葉を知らない野生の狼少年に音楽を奏でたら、彼は音楽に何かを感じるのでしょうか?

それとも、自然の中で生じる1つの「音」として、その「音」に特別な意味を与えることなく、何も感じないのでしょうか?

街中で自分の好きな曲が流れると、たとえそこが喧騒の只中にあったとしてもその曲だけを聞き分けることができます。この聞き分けは、音楽の言語性ゆえかと思うのです。

動物や昆虫の中でも、種によっては音楽に影響を受けることがわかってきました。

穏やかな音楽を流すと穏やかになり、激しい音楽では高揚するのです。あるリズムを流すとそのリズムに合わせ体を動かし、遅くしたり速くしたりしても、ちゃんとそのリズムに体を合わせてくるのです。類人猿にも言葉があることがわかってきたのですから、動物や昆虫が音楽に影響を受けるのも不思議なことではないでしょう。

ところで、「音」の始まりはいつだったのでしょうか?

例えば「色」はいつから存在したのでしょう?

地球上に昆虫だけしか存在しなかった時代には、人間が想像する世界の色とはまるで違っていました。人間と他の生物とは、色の識別がまるで違うからです。だから現在見えている世界の色は、人間が生まれて初めて、この世に生まれたのだと思うのです。

同じように、「音」の始まりは、ビッグバンの爆音が最初だったのではなく、聴覚をもつ生物が生まれて初めて、音が生まれたのだと思うのです。だとすると音が生まれるまでは何億年もかかったのでしょう。星々の生成消滅は、無音で行われたと思うのです。

そして長い年月を経て、人間が現れます。「言葉」が戦争における協調行動の手段として発達した、という話がありますが、戦争における言葉の延長として、言葉よりもより大きく遠くへ伝達する方法として、言葉のあとに「音楽」が生まれたのでしょうか?

いや、人間と人間が戦う戦争以前の話、猛獣への威嚇や、危険の察知として、原初の叫びから音楽は生まれ、それは言葉より先だったのでしょうか?

言葉、音楽、戦争。卵が先か、鶏が先か。

私は、音楽は言葉であり、言葉のあとに音楽が生まれたと思うのです。現代スポーツの凶暴性が戦争への名残だとしたら、現代音楽はその産みの親とも言うべき「言葉」を忘れるための存在に変容してきていると思うのです。

音楽を聞くとき、始めは能動的に「聞き」はじめ、次いで受動的に「聴く」ようになり、そして最後には忘我の状態になり、言葉を忘れます。素晴らしい生演奏を前にしたとき、私はそのようになるのです。

音楽は言葉から生まれ、そして言葉を忘れるための道具になったのです。

だから音楽は、言葉と同じくらい大切だと思うのです。

子供にとって言葉と音楽の教育は、その比率が半々ぐらいでちょうどいいのでは、と思っています。


(16:09)